ハードワークに追われている仕事人間これだけは知っておこう


by mush_k
物事や人間関係が上手くいかないという悩みに突き当たったとき、なぜ、上手くいかないのか、上手くいってないと思うのかを、段階的に分析していく方法か「コラム法」だ。心理学では、物事をどのように理解するかを「認知」という。

その認知の誤り、ゆがみを修正する方法も兼ねており、コラム法をすすめていくうちに認知のゆがみが修正され、自分自身や、自分の立場がよく見えてくる。その結果、自然にその問題の見方や解釈が変わっていき、気がつくと、悩みが消えてしまっていることが多い。コラム法は、つぎの手順で行なう。

①紙に線で五つのコラム(枠)を書き、最初のコラム「状況」には、いま、直面している課題を書く。

例:「会社に行きたくない」

②二番目のコラム「感情」には、①により、引き起こされる自分の感情を書く。このとき、いくつかの感情があれば、それを1~100%で表す。

例:ゆううつ=100% 怒り=60% 不安=70%

③三番目のコラム「自動思考」には、そのとき、すぐに浮かんだ思いを書く。いくつかの思いがあれば、それを1~100%で表す。

例:上司と考え方が合わない=80% 部下に信頼されていないような気がする=40% 自分ばかり大変な思いをしている=50%

④四番目のコラム「別の考え方」には、③とは別の見方・考え方を書き出し、それを1~100で表す。

例:上司ときちんと話し合ったことがない。話し合えば、もっとわかりあえるかもしれない=100% 部下を信頼してもっと仕事を任せるべきだと思う=50% なんでも自分でやらないと気がすまないという傾向が強いのではないか=70%

⑤五番目のコラム「結論」には、順番に考え方を整理してきた結果、導き出された結論を書く。

例:上司にも問題があるが、もっと自分から積極的に、上司と話し合い、理解し合えるようにすべきだった。部下と一度、飲んでみよう。自分からまわりに働きかけ、仕事を分担し合う仕組みをつくろう。
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# by mush_k | 2013-10-16 01:09 | すぐ冷静になれる方法
「もっと落ち着きなさい。落ち着いてやれば、こんなおっちょこちょいなミスはしなかったはずよ」子どものころ、母親によくこういわれた、という人は少なくないはずだ。私も、試験の答案を返してもらうと、自分でも「なんとばかばかしいミスをしたのだろう」と思うことかよくあった。

下線の部分の要約を書きなさいとあるのに、出題文の全体の要約を書いてしまったり、ひどいときには名前を書き忘れ、先生が筆跡から、「これはキミのでしょう」といって、返してくれたことさえあった。落ち着き度を試すようなひっかけ問題にはたわいもなく引っかかったものだ。

自分がいかにものごとに集中できないか、という事実にガク然とさせられたのは、あるとき、学校で、「食後3分以内に、3分間、歯を磨きなさい」といわれたときだった。私の数少ない自慢のひとつが虫歯ゼロであることだった。子どものころから、歯だけはよく磨いていたからだ。

毎食後(当時は少数派だったが、昼食後にもちゃんと歯を磨いていた)、時間をかけて歯を磨いていたという自信があっだので、「3分間の歯磨きぐらい、とっくに実行しているよ」とクカをくくった。だが、じつさいに計ってみると、私の歯磨き時間はどうにか1分程度だったのだ。

へえ、と呆れる前に、ご自分の歯磨き時間を計ってみることをおすすめする。人は、単調なことをつづけることができないものらしい。

自分に合った「お助けグッズ」を見つけよう

そんな性分もあって、私は、なんとか3分間ぐらい、できればもうすこし、長時間、ひとつのことに集中したいと思うようになった。座禅にも興味をもったのだが、お寺にいくほどの気持ちにはなれなかった。おっちょこちょいのうえ、億劫がりなのである。

ちょうどそのころ、「グレゴリオ聖歌」のCDがブームになった。夜、寝る前に、これを聞いていると、ちょっと単調でゆったりしたメロディーやリズムが自然に気持ちを集中させてくれることに気がついた。その後は興味を引かれるままに、「般若心経」のCDや、ダライ・ラマの「マントラ」などを手に入れ、それを流し、しばらく目を閉じ、瞑想もどきをしている。

漠然と目を閉じ、集中しようと思っても、かえって脳裏にいろいろ浮かんできてしまうが、音楽を流しているとそうした雑念を押さえることができる。聖歌あり、お経ありということからわかるように、信仰とは関係なし。結果的に、宗教に関わりのあるものはゆったりとしたリズムでおだやかな抑揚であることが多く、集中心を養うことに役立つようだ。
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# by mush_k | 2013-08-21 23:58 | すぐ冷静になれる方法
小さなミスが心の余裕を失わせ、大きなミスを呼ぶ

「しまった。名刺を忘れた」人間なんてたわいないもので、たったこのくらいのことで、すっかり動転してしまう。「前に会った担当者か出てきてくれれば、ご無沙汰しています、と頭を下げるだけですむ」。そうした願いが届いたのか、出てきたのは見覚えのある顔の前回の担当者だった。

ほっとして、つつがなく話をすすめたところ、相手は突然、「これからも何かとお世話になると思いますので、部長を紹介しましょう」と言い出した。

本来なら、これは相手の好意の証。小躍りして喜びたいところだが、肝心の名刺を忘れてしまったのだ。だが、向こうがすっかりその気でいるのに、「今日はけっこうです。できたら、次回にお願いします」なんていえない。

そんなこんなの末、「じつは、あいにく、名刺を切らしておりまして...」とかっこ悪い挨拶をした。これは名刺を忘れてしまったときの常套句だ。相手にはそれが見え見え。いっそうバツが悪く、あがってしまう。そんな経験をもつ人は少なくないと思う。

じつは、私には何度かある。最近では、そんなときに備えて、財布のカード入れのところに予備の名刺を数枚入れてあるほどだ。忘れただけなら、なんとかなる。とりあえず、その場は「名刺を切らしてしまった」ことにして、帰社後、すぐに名刺を送ったり、次のアポのときに持参し、「先日は失礼いたしました」と丁重に頭を下げ、改めて名刺を手渡すことなどで乗り切れる。

取り返しがつかないのは、「忘れた!」と意識したとたんに、頭に血がのぼってしまい、話に集中できなくなってしまうことだ。私など、相手の話の要点をメモしながら、頭のなかでは、「昨日、カバンを整理したのがいけなかったんだ。なぜ、昨日にかぎってそんなよけいなことをしたんだろう」などと、ぐじぐじと前日の行動を思い出していたりする。

その結果、頭は留守になり、返事はあやふや。これでは、相手に好印象はもってもらえない。第一、せっかく仕事の機会を得ながら、自分自身がいちばん後味の悪い思いをしてしまうのである。

気持ちを動転させる忘れ物をなくすおまじない

ものに動じない自分、というと、武士道をきわめよ、といわれているように感じる人もいるだろうが、じっさいは、忘れ物などうっかりミスをなくすという、小さな心がけの集積で十分なのである。そうした失敗体験の結果、いまでは、忘れ物をしない「おまじない」を唱えることにしている。それが「あとみよそわか」である。

幸田文さんは、明治の文豪・幸田露伴の娘さんだ。幼いころ、母を亡くした文さんを、露伴は男手ひとつで育てたばかりか、文さんを、どこに出しても恥ずかしくない女性にしようと、日常の立ち居振る舞いから家事万端まで厳しく仕込んだ。

そのしつけのひとつに、「あとみよそわか」がある。瑞的にいえば、女性は立ち上がったあと、さっと身辺に目を配り、たとえば、座ぶとんをさっと整えるなど身ぎれいな印象を残すようにしなければいけないというような教えである。

「あとみよそわか」は江戸時代ごろからよく使われた言葉で、「後見蘇波可」。「あとみよ」とは文字どおり、振り返って見なさいという意味。「そわか」は、「成就しますように」という意味だという。何かをしたあとは、その結果がどうなったのか、よく見なさいよ、という意味だそうだ。

私のような仕事では、もっとも赤っ恥をかくのは、相手からいただいた資料などを忘れることだ。大事な資料はいうまでもないが、たとえ、あちこちで配っているリーフレットだとしても、相手が取材のために用意してくれた資料を忘れるなど、言語道断だ。

それを防ぐために、私は、露伴のしつけを頭に刻み、立ち上がると、頭のなかで、「あとみよそわか」とつぶやきながら、すばやく座っていたあたりを見まわすことを習慣にしている。この言葉をおまじないのように唱えるようになってから、忘れ物はかなり減り、その分、動転することも減ってきた。

「あとみよそわか」は、自分を振り返る言葉にもなる。今日一日、大事なことを忘れてしまわなかったか。毎日、このおまじないを唱える習慣をつけると、思わず、してしまった失礼など、自分の言葉や行動で心遣いの足りなかったところを小さなうちに気づくことができる。小さいうちなら修復もしやすく、大きな波風に襲われなくてもすむようになる。
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# by mush_k | 2013-05-08 01:02 | すぐ冷静になれる方法